私が幼稚園児だったころに持っていたおもちゃに、こんなのがあった。
本なんだけど、歌の歌詞が書かれていて、その歌詞に沿ったイラストがかかれており、開いた2ページ分のスペースのどこかに、確か丸いエリアが示されていて、そこに茶筒のような片手で動かせるぐらいの重さの円柱の付属品を載せると歌が流れるというもの。
これ好きだったなぁ。
私はこのシステムが好きだった。
私にとって姿を持たない存在とのインターラクションはこれに似てる。
似てる…けど、実際はこの絵本のように丸印で示されていないから、どちらかというと突然音が鳴り出す感じ。
姿を持たない存在といっても「いろいろあるよね?」となるかもしれないけど、基本的にどれも同じ。
とはいえ、具体的にこれ!というのがある方が、話を理解しやすいと思うので、ここでは亡くなった人とのインターラクションについて書く。
まず、全ての思いはエネルギーの糸であり、意図。
私たちは生きてる間にしか思いの糸(意図)は作れないが、それらは肉体が滅びた後も残る。
亡くなった人とのインターラクション、できる・できない論で言うと、私は「できる」派。
ただ、その「できる」感じは、あなたのイメージとは違うかもしれない。
ここからは、以前、身近な存在を亡くされ悲しむ相談者さんとのセッションでお伝えしたこと。
肉体を持たなくなったら、「ここ(私たちがいるところ)」にはいないから、LIVEでのコミュニケーションはない。
では、亡くなった存在との関係が深ければ深いほど、その存在を身近に感じたりすることがあるのはなぜか。
それは、肉親などであれば、DNAを通して私たちが自分の体内に彼らの(彼らと同じ)エネルギー(振動数)を持つから。(以前も少し書いたよ↓)
creativeenergyhealing.hatenablog.com
それが親子関係のような場合、互いの相手への想いがエネルギーのネットワークみたいに私たちを包んでるから。
それは物理的な壁というよりも、多次元の立体的な蜘蛛の巣みたいな感じ。
それに包まれている人自身も、包まれている他者のそれも、私たちはそれらと等しい振動数に達した時に体験することができる。
いくつかの例を挙げると、
①挨拶はセットになっている・「いってらっしゃい」と「いってきます」の例
家を出る時家族を「いってらっしゃい」と見送り、「いってきます」と見送られる。
その「いってらっしゃい」は、その振動数を持った糸(意図)として「いってきます」と言ってそれを受け取った人の周りにネットを張り巡らしていて、その人を不要な危険や害から守ってくれる。
旅に出る時も、学校へ、仕事へ行く時でも、「いってらっしゃい」と見送られたあなたが、無事に帰ってくることができたのは偶然じゃなく、守られていたから。
でも、中には「一人暮らしで見送ってくれる人なんていない」という人もいるだろう。
じゃ、その人が無事に帰って来れたのは偶然?
いやいや、皆、この肉体へ旅に来ていて、根源を出る時に「いってらっしゃい」という言葉ではなかったかもしれないけれど、同じ振動数のエネルギーを受け取っているので、今ここにいる人は皆「いってきます」という振動数でそれを受け取ってるの。
それに、30年前だろうが何年前だろうが、生まれてから一度でも「いってらっしゃい」と言われ「いってきます」と受け取ったエネルギーは、今もあなたを包み守っている。
↑の文中下線部だけど、これを「大いなる源」とか、「宇宙」とか、「クリエイター」とか、呼び方は人それぞれだし、文化背景、世代でも異なるけど、同じことを言っている。
②誰かを通して誰かを思い出す時
例えば、部下思いの上司と、あなたがその上司を尊敬する部下という関係で説明すると、あなたが何かやらかして、その上司に注意されることがあったとする。
その時に、その上司を通して自分の親(健在であれ亡くなったのであれ)を思い出したとする。
それは、あなたの親が、かつてあなたに対して抱いた思い(振動数)が糸(意図)となり、あなたを包んでたところに、それと等しい振動数に達した上司が同じ振動数を持つ思いをあなたに伝えたということ。
そんな時は、上司もその部下に対して自分の子どもへ抱くような思いを、少なくともその瞬間は抱いている。
これらの例からもわかるように、私たち自身を包む「誰かの思いの糸(意図)」を体験する時、必ずしも「あ、おじいちゃんのだ」とか、他者を包む「誰かの思いの糸(意図)」を「あ、〇〇ちゃんのおばあちゃんのだ」という風に体験するとは限らない。
そういった情報も、それを感じる人にとって意味があることであって、それを感じる人もそういった情報にオープンであれば入ってくることもあるし、ビジュアル情報もついてくる場合だってある。
私はビジュアル情報も得るけど、最近2パターンあることがわかってきた。
パターン1
1つ目は、例えば私がある振動数を持つ祖母の思いの糸(意図)から情報を得ている時、その思いを作り出していた際の祖母の姿が見える。
「そこ」に見えるけど、「ここ」(私がいるところ)にはおらず、祖母は肉体を持たない(他界している)ので、ライブでのやりとりは無いし、たとえこちらを見ていても(目があっても)それは私がダウンロードしてる情報(祖母の思い)またはそれを受け取ることと関連するメッセージとして私が「見てる」(作り出してる)に過ぎない。
パターン2
もう一つのパターンは、誰か他の人が包まれてる思いの糸(意図)に触れて、その思いの主が見ていた「誰か他の人」の姿を見る時。
分かりやすく言うと、Aさんという友人が私にいたとして、Aさんの亡くなったお爺さんの思いの糸(意図)に触れて、そのお爺さんが当時見ていたであろうAさんの姿を見る時。
こんな場合に私がいう「見る」という感覚は、ここに書いた感じが近い。
creativeenergyhealing.hatenablog.com
こんな風に、私たちは皆誰かの思いに包まれていて、場所やモノも同じで、そこには誰かの思いがネットワークを張り巡らせている。
それに包まれている人自身も、包まれている他者のそれも、私たちはそれらと等しい振動数に達した時に、気づいていようがいまいが体験している。
言い方を変えると、私たちの振動数次第で、私たちを包む誰か思いの糸(意図)の感じ方も変化するということ。
受け取り手の振動数(バイブレーション)
中にはまだ生きている人の思いの糸(意図)だってたくさんある。
そういうネットワークの部分と同じ振動数に達した時に、ま、ある意味突然、その情報を受け取るわけだけど、受け取り手である私たちが、そういう仕組みを知らなかったら、普通に「自分の思い」としてプロセスしてしまうよね。
良い情報であればそれも良いけれど、中には振動数の低い情報も含まれる。
そういったものの場合、こういった仕組みを知らなかったら、そのまま飲み込まれてわけがわからない感じになって拗らせてしまうのが霊障かと思う。
肉体が滅びたらそこにその人はもういないし、その人のタマシイ的な部分を雫とすると、それは海のような源泉に戻るから、特定の死者が誰かや何かを悩まし続けるというのはちょっとありえない。
そういった存在や場所があるなら、それは最初にそんな思いをそこで抱いた人(一人とは限らず)の思い糸(意図)と、「そういった情報を受け取った」存在が生きている間に紡ぎ出した思いの糸(意図)とが同じ振動数となって、そのネットワークをより強くしてるんだと思う。
だって、高い振動数の時、いわく付きの廃墟だとか、肝試しスポットとかエネルギーが淀んでるところにわざわざ「行こ行こ!」ってならないでしょ?
私が、「肉体が滅びたらそこにその人はもういない」というと、大切な人を亡くしたばかりの人や、死者が見えると言いたい人にとっては残念な意見に聞こえるかもしれないし、
大切な人を亡くして「その人の思いを感じる」と涙したりしてる人はどうなるのか??と言われるかもしれない。
私は、「それは、その亡くなった方が亡くなるまでに抱いたあなたへの思いの糸(意図)と同じ振動数に達したから雪崩のように情報が溢れてるんですよ」と言うしかない。
愛するものに先立たれる悲しみは想像するだけでも辛いことだけど、
愛するものを残して先立つ人の悲しみは想像を絶すること。
私たちは誰かの思いの糸(意図)に包まれているけれど、それなりの振動数に達しなければ、引き出せない(体験できない)思い(情報)もあるということ。
それを他人にお願いして教えてもらうのが、いわゆる口寄せ的なやつかなぁと思うけど…。
私はね、つい10年ぐらい前まで、こうした仕組みを知らなかったため、頻繁に起きる情報のダウンロードの意味がよくわからず混乱することが多かったし、目に見えない存在とか肉体持たない存在とか怖くて仕方なかった。
それはあたかもローラーコースターみたいな絶叫マシンを目を閉じて「ぎょえぇぇぇ!!」とか言いながら乗ってる感じ。
絶叫マシン=私に傾れ込んでくる情報
目を閉じて「ぎょえぇぇぇ!!」とか言いながら乗ってる=拒絶している
もし全てを全開でしっかり体験できたらすごくない?と思った。
私は自分が、自分で意識できてる以上の情報を受け取ってることに気づいて、7年ぐらい前に「全てしかと体験してやる!」と決めて、それから常に「自分が見聞きするだけじゃなく、あらゆる感覚で感じ取ってる全てをありのままに受け取れたら…!」と思っていたら、徐々にわかってきた。
それらが、相談者さんたちをサポートする中で非常に役立ってると感じる今。
ちょうど10年近く前に、ロンドンのエネルギーワークのコミュニティーで出会った男性が私に言ったことがよくわかる。
「Kaekoはどうして目に見えない存在を怖がるんだい?君がその恐れを手放したら、そんな君に助けられる人がたくさんいるのに」
彼はそのコミュニティの集まりで出会って15分ぐらいしてから、唐突にそう言ったんだけど、混乱したよね私🤣
「へ?」って。
でもそれがきっかけになった。
彼も、私が包まれている誰かの思いの糸(意図)に触れたんだろうな、あの時。
ありがとう!
最後まで読んでくれてありがとう。
先日、相棒といっしょに言った江戸東京たてもの園。
味のある小道があった!
靴を脱ぎ履きしながら、いろんなオタクにお邪魔してきた。
こういう体験型の博物館は楽しい。
私の相棒は、書かれてるものをきっちり読んで「ほぉ!」とか「そーなんか!」とか言いながら見るのが好きな人。
私もある程度読むけど、読み落としが多く(注意散漫になる)、相棒が「へー!そうなんか!」と言った時に「何々?」って聞くと「読んでへんのかいっ!」とツッコまれる。
私にとって楽しさを高める要素があれば、どこでも楽しい人なので、相棒に「簡単で良いねw」と笑われるのだけど、この日は快晴、ご飯も美味しく、二人ともご機嫌だったから、それ以外はなんでもよかったっていうぐらい、楽しかったのだ。