最近読んでる法隆寺の考察本に、たたりのコンセプトについて興味深いことが書かれてた。(写真は東大寺)
著者の梅原猛さんは、日本の神祀りは「たたり」を防ぐ目的があったんじゃないかーっと仰っている。
それは、Aという国をBという国が侵略したら、Bは、Aの祖神を祀るという感じ。
手厚く祀ることで、「ま、いろいろあったけど、タタらないでよね」みたいな感じ?
聖徳太子さんや菅原道真さん、大国主さんも祟り神として祀られているというけど、確かに東京でも「あれ?」というところで菅原道真さんを見たりする。
菅原道真さんは、言ってみれば普通のおじさんだったはず。
よっぽど後ろめたさが残るような仕打ちをしたんだろうな。
このシステムって、さっきのA国、B国の例からいえば、B国の後ろめたさ、罪悪感から、A国のトップや祖神たちは奉るとは名ばかりの、実質上「封印」のような形で閉じ込められてしまってるという意味でもある。
で、B国はそれをやり始めたら、ずーっとやり続けなくてはならないよね?
そこへ、何も知らない一般人が、願ったり祈ったりしにくるわけで、その度に封印は強くなりそうな気がする。
祀られた側は祀られた側で、「おのれぇ〜」(って言ってるかどうか知らんけど)と、怒りを抱えたままだと、きっとこう着状態に。
これってさ、個人レベルでもよくやってしまうセルフサボタージュ(自虐)の一種。
解消するには、
①最初から、祀らねばならないほど後ろめたさや罪悪感を感じるような行為をしない。
②やってしまったことを正確に認め、詫び、改める。
③怒りはさっさと解消しておく。
④よくわからない対象に願い(念)を込めない。
しかない気がする。
だから、「たたり」って基本、「たたられる!」とビビった方が被害者ぶってるけど、実はそっちが最初に悪いことをした方で、それを隠すために「たたられる!」と被害者ぶり、挙句罪悪感を隠すために神格を与えて祀り、関係ない人々に拝ませる(封印が強まる)…というね、ものすごいドラマクイーンぶり。
私ね、個人的に祟り神の祟りなんてない気がする。
全ては、祀り祀られた側とそれに手をあわせる側、それぞれの思い(念)だと思う。
そう、自作自演なんだよねーっ。
同じようなエネルギーの癖で、「悪いことをしてしまった」と感じると、先に怒ってみせて「私は怒ってるんだぞ!」と、自分の罪悪感や後ろめたさを隠してしまうというのがある。
怒ってる人ほど自分が悪いと思ってる。
本当に悪いのか悪くないのか関係なくて、そう本人が信じてるということ。
歴史の例として、先ほど挙げたような「祟り神」と勝手に決めつけられた存在は手厚く祀られる。
それは、祀る側の「罪悪感」が大きければ大きいほど、手厚くなる。
こういうのを、現代の人間関係で言うなら次のようになる。
「悪いことをしてしまった」と思って罪悪感がある人が、それをカバーするために怒り、無実のあなたを攻撃する。
「そんなこと言われても…」と混乱するあなたは、ここでは祟り神役。
ここで傷ついたり、逆上すると、祟り神を引き受けてしまうことになる。
=封印される。
ので、こういう場合は「ああ、この人罪悪感あるんだな。しょーがないなー」と理解し、相手を目の前にして面と向かって言ってもいいし、一人で相手のことを思いながらでも良い。
一言、「許してあげるよ。私、別に怒ってないし」って言うのが良い。
それもなるべく「そんな、取るに足らないことで」ぐらいの「私ってなんて寛大なんだろー」って感じで。
相手との関係がどうなるかはさておき、祟り神役を引き受けずに済む。=封印されない。
でね、思うのよ。
既に、祟り神と決められた神様たちが祀られている(封印されている)ところに行っても、拝むのやめたら封印が解けていく気がするよね。
相手に神格を与えて封印したのは罪悪感を持った存在なんだから、それを強める行為はなるべくしない方が良いと思うというのが私の考え。
それよりも、フラットに、その辺の人と立ち話するぐらいの感じで世間話的にするのが良いんじゃないかなと思う。
ある頃から、私は自然と神社で祈らなくなった。
それより「ひゃっはー!めっちゃ気持ち良い〜」とか、「ここ面白かったなー」とか、「きれいー!」とかって味わう感じにシフトした。
それはきっと、このメカニズムを察知してたからかもねー。
知らんけど🤫
写真は東大寺。次は法隆寺へ行かねば。