私、この頃意識してるのが、何か情報に接した時に、自分の中で、それをジャッジメントする理由に使わないようにしてること。
すでに、ジャッジメントがあったら、その情報のおかげで気づけるから、そこで手放すことにしてる。
ジャッジメントとは、良い悪いと判断して、自分はどちらだ、アイツはああだ、とか排斥したり、見下したりすること。
私の手放し方は、「まてまて、いろいろ考え方もあるかー。あはは。私また近視になってるー!ドンマイドンマイ」みたいな感じ。
エモーションコードするまでもない!
だってさ、それがそれぞれの人たちにとってどんな意味を持ち、どんな風に作用してるかなんて分からないのだし、心底「なんでもありやし」と感じれてる。
ちょっと前はまだ「頭でジャッジメントがよくないのはわかるけど、『なんでもあり』と心底思えてない」私がいた。
そんな時は、まずそんな自分と向き合わなくてはならない。
そう思えないのは何か、向き合ってほしい置き去りになってる思いがあるから。
私も、大騒ぎしながら、それらと向き合ってこれたんやねーって、今感じる。
数年前に、それまで好感を抱いてたバシャールにすごい違和感を感じたことがあった。
それは彼が、ここからは別の列車に乗ってるみたいに、合わない人とはどんどん離れていくみたいなことを言った時。
私、すごく悲しくなったのよ。
取り残される気がして。
自分は、どの列車に乗ったらええの?!みたいな感じもあった。
今思うと、私オモロいなって思うけど、その時は寂しかったのねー。
それは、私の中に「どうせ皆とは同じ列車に乗れない」というジャッジメントがあっただけ。(出た!「どうせ」…)
自分に対して肯定的なジャッジメントがあれば、「そうなんやー!じゃ、私は私の仲間と一緒の列車でハッピー!」とかで終わり。
で今、それは「棲み分け」のこと言ってたのかなって感じる。
別に、「こっちの列車に乗れ」と説得する必要もないし、「こっちの列車の方が上」とマウントする必要もない。
お互い、「Have a good trip」で良いんじゃないだろうかって思えるこの頃。
そしてそれが「棲み分ける」ってことなんじゃないかって。
だって、「皆が正しく自分の幸せを望めば、自然と世界は平和になる」のだから。
何も、仕切りで仕切って、物理的に棲み分かれることを指すとは限らないし、理解しようとする必要もなく、ただ「その人にとってそれが今最善」な可能性を否定しなくても良いということ。
否定するという仕事が一つ減る!と捉えるのも良いかも。
でも、それが親、子ども、パートナーとか「身近な人だったらどうするんですか?」ってなると、正直なところ、答えは一つではないし、突如グレーになってしまって苦しい…ってならない?
それは相手あっての話っていうのもあって、苦しいのだと思う。
私たちは、自分で100%どうにかできることって、どうにかするやん?
それができないから苦しい。
苦しいのは、抽象度が低い(俯瞰できてない)時だから、とりあえず、ぐっと抽象度を上げることが大事なんやと思う。
たとえ、それが超一時的なものであっても。
そうするうちに、その人だけの答えというか、道筋が見えてくるのではないだろうか?
あー!やっぱりジャッジメントとっぱらってもっともっと頭軽くしよっと!
これは佐原の、公衆トイレ!すごくない?ちゃんと景観にマッチするよう、厠の看板付き。
伊能忠敬記念館の裏にある。