先日こんな話をしていた。
それは、「あまりにも心を動かされる映画や音楽、小説、漫画の類は不自然だよ」というもの。
これ、わたしのセリフなのだけど、これは映画の話をしていた時に、アニメはどう?みたいな話になり、この世界の片隅でとかいう戦争モノについての感想を聞いた時に言ったんだよね。
一緒に話してた人曰く、「なんかさ、いたたまれない気持ちになったんだよね」という感じで、よくある戦争映画とは違う、なんとも言えない気まずいやりきれなさみたいなのが漂う作品だったと。
ここから、わたしがその人に話したことね。
悲しいとか、虚しいとか、気持ち悪いとか、憤りを感じるとかだけじゃなく、美しい、素晴らしい、楽しい!とか、なんで共感できるかというと、自分の心が、その共感を寄せる対象に寄り添ってる、英語ではalignするって使うけど、からなんだよねって。
ポイントはここから。
そんな風に、自分が心を動かしてることに無頓着だと、「心を動かされる体験」ということになり、それは憑依されてることと変わらんのだと。
心を動かされる=肉体から剥がれ始める感じで、半ば主不在となった身体に、いよいよ憑依される=乗っ取られる感じ。
そうなると、自分の身体が居心地悪く感じられたり、自分そのものが居心地の悪いものに感じられたりし、心と身体が剥離した人はやがて、病や怪我が多くなる。
そしたらね、話していた人がこう言ったの。
「じゃ、アーティストとかが、人の心を動かす作品を作りたい!って思うのはどうなん?」と。
これに、元々美大卒、二十三年間暮らしたイギリスも、元々美大で修士をやるために行き、十年間図工と美術を教えてた経験のあるわたしが驚きの回答をしたの。
それは、「そもそも、誰かの心を動かそう!って思う事自体、よくよく考えたらオカシイねん」
何ぃぃぃぃぃー!!!!!
自分でも驚いた。
だって確かにそうやんか!!!!
わたしたちは基本的に、自分の心しか動かせない。
そこへ「誰かの心を動かす作品を作る」だと??
映画や音楽といった作品の中には、まるで透明の手でもって、見聞きするわたしの脳を弄ろうとするようなエネルギーを持つものが多いんだよね。
わたしも成長したもんだと思った。
でね、その人もそうだし、かつての自分もそうなんだけど、感動超大作!とかさ、見るの、気持ち良く無い?
それがたとえ戦争ものだったとしても、その「感動させられる行為」って気持ち良く無い?
そしたら相手の人が「確かにね!それでカタルシスが生まれるわけだからね」と言ったんだよ。
わたしはその「カタルシス」とやらを、語れるほど知らんけど、つまりはそういうことなんだよ。
だから眠たくなる。
透明の手で、心も脳も弄られてるから眠くなる。
ヒーリングやエナジーワークも同じで、眠たくなることもあるけど、それはエネルギーを弄るから。
わたしのセッション中に船を漕ぐような人には、「寝ないで!」とバシバシ起こす。
セッションで眠たくなるのは、ある程度は仕方ないとしても、映画や音楽の感動体験と同じ感覚で受けられるのでは、本人の自由とはいえ、わたしは断る。
で、最後に聞かれた。
「どうすりゃいいのよ?」と。
それはもうたったひとつ。
肉の自分から離れず、見たけりゃ見りゃ良いよ、である。
どうすれば肉の自分から離れずにすむかというと、俯瞰するってことなんだろうけど、客観視する。
そういうと、大体の人間は、自分以外を観察し始めるんだけど、客観視する対象は自分。
自分が感じてることを、実況中継さながらに観察すること。
これしかない。
肉の自分が生きれなくなるので、絶対に離れちゃだめ。
そして、見終わったらこの世にきちんと戻ること。
これが大事。これが「振り子を止める」ことにつながる。
さてさて、わたしのバルコニーハーブガーデン。
なかなか、ええ感じ。
わたし、庭いじりは素手でやるんだけど、これも肉の自分に戻る行為のひとつだよ。