イギリスだったら、今日は祝日…などど考えております、とっても寒い月曜日。
しかし、見事に週末に「祝日」が集まりましたなぁ…ということで、クリスマスもボクシングデーも、月曜日と火曜日に代休扱いとなっているイギリスです。
ところ変わって日本。
イギリスのクリスマスパーティは、日本の新年のようなエネルギーがこもっていますが、
日本だと「クリパ」と、とても軽くて、これはこれで独自の催しと化しています。
ところが、こんな催しにも、プログラミングが込められてます。
こんな時、私の母のようなタイプだと、「誰が」「どうして」そんなことをするのか?で、思考停止してしまいますが、
一番大切なのは、そんなことじゃなくて、「どんなプログラミングなのか?」ということです。
↑因みに「誰が」「どうして」に迷い込むこと自体もまた、プログラミングの一種です。
プログラミングとは、私たちを、Distraction(気が散ること)して、依存させ、本質から遠ざけます。
しかも、言葉、ですから、例えば、クリスマスをお祝いすることそのものとは、無関係なんです。
プログラミングは、その言葉にこもっているのです。
例えば、クリスマスや「クリパ」。
宗教的、文化的背景は、ほぼ無関係のところにプログラミングがあります。
「それ」に従事していないと、自分は不適合者かのように感じたり、
「それ」に従事していたら、充実してる、もしくは、していないから、充実していない…といったメンタルに陥るような誘導こそがプログラミングで、
陥ってしまうことそのものが、プログラミングの結果です。
同じように、代替療法という言葉にもプログラミングが入ってます。
もう「代替」という言葉そのものが、おまじない(呪い)です。
代替しているうちは、「すり替え」てるに過ぎませんから、本質的な部分で解決していないことになります。
代替しているうちは、気づいていても、向き合えないので、「すり替え」て、その場を凌いでいるに過ぎないわけです。
では「代替療法」と、誰かが呼ぶ「何か」が、「すり替え」なのか?というと、違うわけです。
誰かによって、勝手に分類された代替療法と呼ばれる「何か」は、その「何か」でしかないんです。
でも、プログラミングに気づかないで、その「何か」を受けているうちは、「代替」=すり替えになってしまうということです。
以前、書いたパワスポの話と、本質的に同じです。