嫌な人や、嫌な事が気になる、目につく時、
例えば「それはあなたの中にも、同じような嫌な部分があって、引き寄せてる」みたいに言う場合がありますが、
それはちょっと違う。
実はそこには、自分の中でタブーになっていることと、
更に、自分の生き方の根底にある大前提が隠されています。
それらに気づいて、それらを手放して、新たな選択をし始めると、
あなたの体験がどんどん変わっていきます。
だから、「嫌な人は、実は天使」みたいな言い方をする人もいるわけです。
嫌な人や嫌な事がある時、そうやって「嫌な気分」を味わってる自分にヒントがあります。
例えば、カフェに入った時。
私が案内されたテーブルの隣のテーブルで座っていたお客さんが、貧乏ゆすりをしていました。
座ってすぐに、「うわぁうわぁ〜、気になるぅ〜!」ってなったとします。
席を変えてもらおうかな?と思いましたが、
いや、隣の人への当て付けみたいやし…とか、やってるうちに、
メニューとか、お水とか、運ばれ、
その内、オーダーも済んで、何となくタイミングを逃してしまいました。
イライラが募ってくる!!
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さて、ここで質問です。
私がイライラしているのは、何に対してでしょうか?
① カフェという公共の場において、貧乏ゆすりなどしている客
『ちょっと、ここ、カフェなんですけど???』
②っていうか、ちょっと「嫌なんだけど」という空気を醸してるのに、貧乏ゆすりを続ける客
『なんで?!』
③そもそも、何で私が我慢しなきゃならないのよ〜!!!
さ、どれでしょうか?
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正解は…、全部正解です!!!
でも、最終的には③です。
まず、この場合の、私の中のタブーですが、
それは、人目を気にせず、自分の感じるままに行動する、我慢しない生き方。
そして、その根底にある、私の生き方の大前提が、ここに紐づいてます。
貧乏ゆすりしてる客は、この状況の私からすると、人目も気にせず、貧乏ゆすりを我慢してません。
「私はこうして我慢してるのにっ!!!」ということです。
言い方を変えると、「私は、コイツ(貧乏ゆすりする客)に、我慢させられている」ということになります。
「私には、この状況をコントロールできない」というストレス。
つまり、この状況の私から見て、よりパワーがあるのは、この客なんですよ。
そう、私はこの、貧乏ゆすりする客の被害者…。
大前提が見えましたか?
それは、私の被害者意識です。
被害者意識と、被害者は別物ですよ、念の為。
この、「自分には選択の余地がない」という前提で生きてる時、
私たちは、被害者意識モードで生きてます。
それが、人目を気にせず、自分の感じるままに行動する、我慢しない生き方。
そこには、「わがままだ」とかいうジャッジも入ってくるわけです。
我慢してる時のイライラも、
選択の余地が無いという感覚も、
自分の感じるままに行動するのはワガママだというジャッジも、
全てエネルギーなんですよ。
目に見えなくても、確実にそこにあるエネルギーなんですよ。
やがて、そんなエネルギーのあれこれに阻まれすぎて、身動きし辛くなる時、
体に症状として現れてきたり、気持ちの切り替えもしにくくなっていき、
どんどん視野も狭く、心も固くなっていってるわけです。
ちょっと長くなってきたので、今回はここまでにしますね。
次は、これらの制限に気づき、自分の生き方を決める大前提にも気づけてからのことについて書きます。
それらを、いわゆる手放すだけじゃ不十分なんです。
そこから自分で自分をトレーニングしていくんです。
そんな時に必要となってくる、選択について、次回書きたいと思います。
レトロ建築に凝ってる私。
これは京都にある国立博物館。
この日は、企画展をやっていたので、中へは入れず。
あ、企画展を見たい場合は入れますよ。
この企画展には興味がなかったなぁ〜ということで、入らなかったけど、
外から楽しみました。