去年のロックダウンが厳しくて、表もシ〜ンとしていた頃、よく聞いてたトム・キャンベル始め、物理学者や科学者の語るコンシャスネスは分かりやすくて好き。
これは最近の動画。
ここでトム・キャンベルが「選択の自由は、何でも好きなことをやって良い…というのとは違う。それはエンドレスに欲求があるということだ。選択の自由とは、どんな状況でも選択が可能ということだ。」
私もよく「You can do whatever you like」と言ってしまっていたけれど、確かにそう言いながらも、そうじゃないことは分かっていた。
例えば、私が「〇〇に行きたいな!」と旅を計画し始めたとする。
ネットでチケットとか、泊まるところとか調べてワクワクもして、「行くしかないかー!?」となっても行かない時がある。
理由は何でも良いんだけど、ハイヤーコンシャスネス(高次な自分)レベルで「それ、今じゃないだろー」と却下(選択)しているのよね。
私の例で言えば、「そもそも〇〇に行きたいな!」というのはどこから来たのか?
やるべきことから逃れるため?
本当にやりたいことは?
それとも?
もっと単純に言うと、「何でも好きなことしたら良い」として、私は私が望まないものはたとえ一見楽しそうでも、簡単にできることであってもクリエイトできないってこと。
トム・キャンベルが、「ジョージが喧嘩を売ってきたとする。君はどうする?怒るかい?それとも、『これは一体何だろう?』と理解しようと努めるかい?それとも?」
「ジョージは君に選択するという場面を与えるために現れたに過ぎない。」
今、私たちの前にチラチラと現れる「強制〇〇」みたいな話は、私たち人間が「選択の自由」を行使せずに生きてるから、「選択させてあげよう」とコンシャスネスが作り出したものかもしれない。
2017年ぐらいから、物理学者(が多いけど)、科学者、医師の語るコンシャスネスをよく見てるのだけど、ものすごくスピリチュアルで、かつ論理的で分かりやすい。
私は「とにかく、言われた通りにしなさい」と言われるのが苦手。
その先が見えないと、すごくやりにくいから質問も出てしまうし、やる気も出ない。
「何のためにやっているのか分からないままやる」のはとても不安になってくるのだ。
スピリチュアルって私にとってそういう暗黙の了解が多かったのだけど、例えばトム・キャンベルは、↑選択の自由みたいに、明確に定義してくれるから分かりやすい。
最後に、「あなたの選択は潜在的な恐怖に基づいてますか?それとも愛に基づいてますか?」